善意が通じないとき、誰が悪い?その違和感の正体
「ありがた迷惑って、たぶん、こんなことを言うんだろうな」
最近、そんなことを思う場面があった。
とある取り組みで、ちょっとした“応援”をするつもりだった。
スペースや機会を用意して、ほんの少しの導線を作って、あとは「うまく活用してくれたらいいな」と思っていた。
つまり、「お互いにとって悪くない、むしろプラスのはず」という前提があった。
でも、その「前提」は、実はすごく個人的な思い込みだったことに気づいたのは、少し時間が経ってからだった。
善意が、通じないことがある
人間関係で、いちばんしんどいのは「善意が通じないとき」かもしれない。
お願いされたわけじゃないけど、相手のために動いた。
多少の労力も時間もかけた。
見返りを求めたわけじゃないけど、少しくらい「ありがとう」って空気になると思っていた。
それなのに、
「もっとこうしてほしかった」
「準備が足りなかった」
そんなニュアンスの反応が返ってくると、
「え、こっちが悪いの?」という気持ちが湧いてくる。
やってあげたつもりが、
なぜか「やってしまった」側になってる。
これ、めちゃくちゃモヤモヤする。
本気の人ほど、軽く扱われたくない
今回の件で気づいたのは、
「本気で何かをやってる人ほど、“イベント的なもの”や“お試し”という言葉に敏感だ」ということ。
こちらとしては「まずは気軽にやってみて、よかったら続ければいい」と思っていた。
でも相手は、「気軽でも、本質的なことはしっかりやりたい」という信念を持っていた。
しかも、それを「当たり前」と思っていた。
その“熱量のギャップ”が、すれ違いを生んでいた。
つまり、こういうことだった。
- 自分:「ちょっとしたイベント的な機会、気軽にどうぞ」
- 相手:「そんな軽い気持ちでできるものじゃない」
どちらが正しい、間違ってるではない。
ただ、考え方の“ズレ”があっただけ。
でも、ややこしいのは、
「イベント的にいいよ」と言ったのは実は相手の方だったということ。
じゃあなんでこっちが責められてる感じになるんだ?と思ってしまった。
怒りの正体は、「誠意が通じなかった」こと
怒りって、実は「裏切られた」ことそのものより、
「自分が大切にしてたものが届かなかった」ことに対して湧いてくる。
今回でいえば、
「場を整えてあげた」「応援する気持ちがあった」
そういうものが、伝わらなかったことへの怒りだった。
感謝されたいわけじゃない。
でも、雑に扱われた感じがすると、心は静かに傷つく。
「ああ、こんなことなら、やらなきゃよかった」
そんな気持ちが、ふと頭をよぎる。
でも本当は、そう思いたくない。
モヤモヤを“資産”に変えるために
今回、ひとつだけよかったことがあるとすれば、
「どんな相手となら“いい形で組めるか”が見えてきた」ということ。
そして、自分の中にひとつルールを作った。
- 善意は、受け取れる器のある人にだけ差し出す。
- 機会や場は、「求めている人」にだけ与える。
- 相手の熱量や価値観を確認せずに「用意してあげる」はしない。
大人になると、“誰かのために”動く場面は増えてくる。
でもそのときに、「やってあげたのに」が心に残ると、疲れる。
だからこそ、自分の誠意を安売りしないことが大切だと思った。
最後に
感謝されなくても、やってあげることはできる。
でも、感謝されないと分かっていたら、
最初から「やらない選択肢」もあっていい。
誠意も、時間も、手間も、タダじゃない。
その価値をわかる人とだけ、ちゃんとやればいい。
そう思えたら、少しだけ心が軽くなった。